大阪に在る教会ホームページ-キリストのからだの認識-





- ショートメッセージ -

からだの中で、わたしたちは互いに肢体である



肢体であることは、
あきらめることのできないこと


 キリスト教は人々に互いに愛し合うように教えますが、もしあなたが愛することができなければ、あきらめるしかありません。しかし、新約(聖書)はわたしたちに互いに愛し合うように言っているだけでなく、わたしたちは互いに肢体であるとも述べています。互いに肢体であることは、あなたがあきらめることのできることではありません。わたしたちの体は、手が腕の下にあり、腕は肩の下にあります。それらは互いに愛し合うことができようとできまいと、互いに肢体です。あなたは、このビジョンを見なければなりません。正直に言いますが、このビジョンは四十五年の間わたしを捕らえて離しません。あなたがたは、同労者であれ、長老であれ、年配者であれ、若者であれ、奉仕の中でわたしと組み合わされている兄弟たちが、みなわたしの好みに合っている人ばかりであるなどと決して考えてはなりません。わたしはあなたがたに言いますが、十人中八人半の兄弟は、わたしの好みに合わない人たちです。しかも、残りの一人半の中でも、わたしの好みに合っているのはわずか二十パーセントだけで、他の八十パーセントはわたしの好みに合うわけではありません。あなたがたはこれらのことをすべて計算する時、わたしたちの好みに合うものはあまり多くないということがわかります。それでは、わたしたちはどうすべきでしょうか? 



わたしは人であるべき

 これが過去、わたしが損得にかかわる決定をするために、何度も次に述べる計算をした理由です。最初に、わたしが計算したのは、自分は人でありたいかどうかということでした。しかし、これはわたしが決定すべきことではなく、神の定めでした。神が人となるようにわたしを定めたので、わたしにはそれを避けることができませんでした。同様に、あなたについても、神はあなたが人になるように定めました。わたしがこのように言うのを許してください。時には、わたしは自分がどうして生まれたのか理解できません。わたしが生まれなかったなら、そんなに多くの困難はなかったでしょう。そうは言うものの、これはわたしが自分で決めたことではありません。わたしはただ生まれました。それでは、わたしは人であるべきでしょうか、それとも、人であるべきでないのでしょうか?もちろん、人であるべきです。



人であるなら、クリスチャンになるべき

 さらに、わたしは計算を続けました.わたしが人であるなら、わたしはクリスチャンになるべきでしょうか?クリスチャンにならないわけにはいきません。もしわたしが人であるのに、クリスチャンでないなら、それは本当に「わたしは災いだ、わたしはもう終わりだ!」です。したがって、他に方法がないので、わたしはクリスチャンでなければなりません。



聖書は、わたしがクリスチャンであり、
からだの肢体であると告げる


 次に考えたことは、わたしがクリスチャンであるなら、わたしは宗派のクリスチャンであるべきでしょうか?そうであってはなりません。それでは、わたしはどうすべきでしょうか?わたしは、聖書通りに物事を行なわなければなりません。これらの事柄をすべて考慮した後、すなわち、最初の質問から第二の質問、第三の質問、第四の質問へと進んで行った時、わたしはついに完全に鎖でつながれて、拘束されました。聖書によれば、わたしはクリスチャンに間違いありません。それでは、聖書はクリスチャンについて何と言っていますか?聖書は、わたしがクリスチャンであり、からだの肢体であるので、わたしは他の人たちなしに存在することはできないとわたしに告げます。ですから、時々、わたしは主のもとに行って、「主よ、この兄弟はあまリ良くありません。どうして、あなたは彼をわたしと一緒にさせたのですか?」と、主にひそかに不平を言うことができるだけでした。わたしがあまリ多く不平を言うなら、主は、「わかりました。あなたはこの人が好きでないので、あなたに別の人を与えましょう」と言われるかもしれないのを、わたしは知っていました。わたしは、次に何が起こるか知っていました。その当時、組み合わせの味わいは非常に辛かったとはいえ、わたしが主に不平を言い続けたなら、彼はわたしにより辛いものを与えるかもしれません。したがって、不平を言った後、わたしは直ぐにわたしの罪を告白しました。あなたはわたしが言ったことに同意しますか?わたしはこのことをよく知っています。



主に不平を言ってはならない

 わたしはすでに七十歳を過ぎているので、多くの苦いもの、辛いもの、酸っぱいもの、甘いものを味わいました。もちろん、わたしは主についての若干の知識を持ち、彼の道を知っています。ですから、わたしはあなたがたに言いますが、決して主に不平を言ってはなりません。一度、あなたが不平を言い出すと、それは加熱していきます。次に与えられるものは、耐えるのがさらに困難になるものです。その熱は、あなたがもはや感じることさえできない点にまで達するでしょう。あなたの状況がここまで達する時、熱くても熱くなくても変わりないので、あなたは不平を言うのをやめます。あなたがこの段階に達する時、卒業する用意ができつつあります。



わたしは肢体仲間を追い出すことはできない

 したがって、わたしの計算の結論はこうです。わたしは人である以外に選択の余地はありません。また人として、わたしはクリスチャンでなければなりません。そしてクリスチャンとして、わたしはからだの肢体でなければなりません。わたしの同労者であり、またわたしの肢体仲間である兄弟姉妹について、彼らを捜し求めたのは、わたしではありません。わたしは彼らを捜し求めませんでした。一人ずつ、彼らをわたしの所に遣わしたのは、主でした。ある兄弟は稲妻のように素早く動きますが、ある兄弟はそれとは正反対でした。あなたがある事をこの遅い人に説明すると、三日三晩語っても、彼はまだ理解しないでしょう。それでも彼は肢体仲間であるので、わたしは彼を追い出すことができません。雇用者は従業員を解雇することができますが、腕は手を追い出すことができません。腕が手を追い出そうとするなら、手は苦しまないかもしれませんが、手なしに腕は何も行なうことができないでしょう。



肢体である以外に選択の余地はない

 今日、わたしたちはキリスト教がからだを持っていないのを見ます。その代わりに、すべての人はただ集まります。今日、彼らは楽しいので、一緒に集まります。ところが、明日、彼らが楽しくないなら、集会のことを忘れるでしょう。しかし、主のエコノミー(永遠のご計画)の中で、あなたが本当に主のからだを見たなら、また兄弟姉妹が互いに肢体であることを見たなら、それで十分です。議論することは何もありません。あなたは単に肢体であって、肢体である以外に選択の余地はありません。あなたがたが互いに愛し合うだけなら、あなたが楽しい時、あなたは他の人を愛します。しかし、あなたが楽しくないなら、あなたは彼らを愛しません。しかし、肢体として、あなたは肢体である以外に選択の余地はありません。あなたは楽しくても楽しくなくても、肢体です。









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