大阪に在る教会ホームページ-福音問答集-




   Q、1 
    日本には仏教があります。なぜキリストの救いが必要なのですか?


   
A 仏教は宗教ではありません。一つの哲学です。釈迦は目に見えるものはすべてむなしく、修行して悟りを開けば、すべての苦悩から離脱できると教えました。人々は厳しい修行をして悟りを得ようとしましたが、どこまで修行したらよいのかわからず解決はありませんでした。それで釈迦の死後、修行しなくても救われる他力の教えが現れました。それが大乗仏教です。しかし、実は、仏像を拝み、念仏を唱えて救われるというのは、釈迦の教えではありません。これは事実です。確かに、わたしたちは自分の力では救われません。わたしたちに必要なのは、人が造った目に見える動かない偶像でなく、天地万物、またわたしたちを造られた方、わたしたちを救う生きておられる真の神です。キリストは人を救うために来られた神、神が人となられた方です。わたしたちに必要なのは、生きておられる救いとしてのキリストなのです。


  Q、2
    多くの宗教があります。「わけ登るふもとの道は異なれど、同じ高嶺の月を見る かな」とあるように、神に至る道は多いのではありませんか?キリストもその中の一つではないのですか?


   
A キリストは「わたしがその道である」、すなわち、キリストは神に至る唯一の道であると言われました。なるほど山の頂上までは登れますが、人は天まで登ることはできません。ですから実は神ご自身が人となって降ってこられたのです。それがわたしたちの主イエス・キリストです。このように神が低くなってくださったのは、わたしたちを高く引き上げるためでした。キリストは人に神聖な命、神聖な性質を分与し、わたしたちを造り変えてくださいます。そして、わたしたちは地上にいながら天上の生活を送ることができるのです。「この方のほかに、救いはありません。わたしたちが救われるべき名は、この名のほか、天下のだれにも与えられていないからです」(使徒行伝4:12)
   

   
Q、3
    
神に頼る人は弱い人です。力を尽くして生活すべきではありませんか?

   
A 確かに全力を尽くして生きるべきです。しかし、わたしたちの力には限りがあります。わたしたちの知恵にも限りがあります。神は全知全能です。理性以上の世界があるのです。キリストは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である」と言われました。自分の弱さを知らされて神に頼る人は幸いです。人は自分がどのような者か知らないだけで、だれも病んでいるのです。パウロという人は、「弱い時にこそ強い」と言いました。弱さの中に神の力が注入されるのを経験するので、不思議な生活が送れるのです。



   Q、4
    
「クリスチャン」とは何か教えてください。聖書を読んでいる人がクリスチャンだというわけでもないし、十字架のペンダントを付けている人に尋ねると、「クリスチャンではない」と言われました。クリスチャンは、教会の集会に行っている人と思っていますが、どうなのですか?

   
A クリスチャンとは何か、まず聖書の中で次のような言葉があります。「弟子たちは、アンテオケではじめてクリスチャンと呼ばれるようになった」(使徒11:26)。クリスチャンとは、キリストを信じる者に対する呼び名、ニックネームでした。のろいの十字架に死んだイエスをキリスト(メシヤ、すなわち救い主)と信じることは、ユダヤ人にとってはつまずきであり、イエスが死人の中から復活したと信じることはギリシャ人にとって愚かに見えました。しかし、キリストを信じる者たちは、アンテオケの町でキリストを愛して「キリスト」「キリスト」とキリストの御名を口にしていました。ですから人々は軽蔑の意味で、しかし、彼らの特徴を的確にとらえて「クリスチャン」と呼んだのです。そして「クリスチャンとは、キリストの人、キリストと一つである者、キリストに属する者という意味であるだけでなく、キリストとの有機的結合の中で彼の命と性質を持っており、日常生活の中で彼によって生きており、さらに彼を生きている者たちです。」(Tペテロ4:16回復訳フットノート1)。



   Q、5
    
「クリスチャン」とはキリストの人、キリストと一つである者、キリストに属する者、キリストとの有機的結合の中で彼の命と性質を持っている者と言われてもよくわかりません。どうして目に見えないキリストと一つになれるのですか?

   A 確かに、これは奥義的なことですが経験となると、実はそんなに難しくありません。キリストを信じる者は、「クリスチャン」と呼ばれましたが、彼らはそれより前に「キリストの御名を呼ぶ者」と呼ばれていたことをご存じでしょうか? パウロは、以前はキリストを信じる者を追害する者でした。彼は主イエスの「御名を呼び求めるもの」を捕らえていました(使徒9:14、21)。キリストを信じる者たちは「おお、主イエスよ! キリストよ!」と叫んでいたので、捕らえることができました。キリストを信じる者はキリストの御名を呼ぶ者であったのです。そのようにして、キリストの御名を呼ぶ時、だれでもキリストと一つになることができます。「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」(ローマ10:13)のです。クリスチャンは、「主イエス!」と御名を呼んで、キリストを享受し、キリストを経験する人たちなのです。「主イエス!」とキリストの御名を呼ぶ時、復活の主は、わたしたちの心の深みである霊の中に入ってきて、わたしたちと一つになってくださるのです。



   Q、6
    
聖書を読むこと、集会に行ったり、バプテスマを受けることについてはどうですか?

   A そうです。クリスチャンは必ず聖書を読みます。教会の集会に出席して、バプテスマを受けてください。クリスチャンは一人で生きるのではありません。「純粋な心で主を呼び求める人たちと共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」(Uテモテ2:22)。クリスチャンは仲間と共に主を呼び求めるのです。教会生活を通して人生の真の意義に触れ、仲間と共に信仰から信仰に、恵みから恵みに、力から力に、光から光に、栄光から栄光に、祝福に祝福を加えられていきます。ですからクリスチャンは本当に幸いな人たちです。



   Q、7
    
「いわしの頭も信心」と言いますが、わたしは何を信じてもよいと思っています。何か問題がありますか?わたしは仏教ですが、仏教でなくてもよいのです。キリストを信じるのも結構だと思います。何か依り頼むものがあればよいのです。

   A そうですか。しかし、「いわしの頭も信心」では困りますね。それはだれとでも結婚してもよいと言っているようなものです。いわしの頭はいわしの頭です。それは迷信です。単なる気休めですね。



   Q、8
    
迷信ですかね?信仰と違うのですか?

   A そうです。無いものをあると感じるのは錯覚であり、無いものをあると思うのは妄想です。そして無いものをあると信じるのが迷信です。信仰とは、見えない神、実質のある実際である方を人間の五感の作用を超越して認識し経験することです。神以外のものを信じるのは信仰ではありません。
  ですから偶像と真の神の違いを知る必要があります。偶像とは人が造ったもの、人が考え出したものです。真の神は天地万物、そして人を造られた方です。



   Q、9
    
それでは多くの信仰の中から真の信仰を選ぶ必要があると言われるのですか?真の信仰の条件は何ですか?

   A そうです。真の信仰の条件は
 (1)人生の意義、目的は何かを明らかにするものでなければなりません。
 (2)人の心の深みを満たすものでなければなりません。
 (3)死の問題、永遠の問題を解決するものでなければなりません。
 このような問題に答えを与えることができるのはキリストを信じること以外にはありません。




   Q、10
    
やはりキリストですか? キリストを信じるしかないと言いたいのですね。キリストを信じると言ってもキリストがどんな人かわからないのに信じられません……。

   A そうです。だから「いわしの頭も信心」では困るのです。キリストがどんな方かを知る必要があります。
 聖書の言葉に「信仰は聞くことから来るのであり、聞くことはキリストの言葉による」とあります(ローマ10:17)。聖書に啓示された真理、生けるキリストを知る必要があります。わたしたちには信仰がありませんが、キリストのことを聞くと不思議なことに信仰が生まれるのです。




   Q、11
    
何ですって?信仰が生まれるのですか?

   A キリストは生ける神ですから、彼を信じると信仰が生まれるのです。それは単なる頭の承認や納得ではありません。キリストを知らなければ、盲信や迷信になってしまいます。しかし、知識が信仰でないことも知らなければなりません。
 信じることの最も単純で確かな方法はキリストの御名を呼ぶことです。「主イエスよ! わたしを救ってください!」。主イエスの御名を呼べば呼ぶほど、ますます信仰が出てきます。信じることができるようになります。死んで復活された生けるキリストがわたしたちの中に来てくださり、わたしたちと一つになってくださるからです。その結果、わたしたちは有意義な人生を送ることができます。わたしたちの心の深みは満たされ、永遠の命にあずかることができます。そして楽しい教会生活があります。これは真の信仰です。




   Q、12
    
教会の集会に友人をお誘いすると、「信仰を持たなくても、良心にしたがって生きておれば、それで良い思っているので」と反論されました。これは違うと思うのですが・・・。

   A そうですね。確かに良心的であるべきです。パウロも「わたしも神と人々に対して、とがめのない良心を常に持とうと、自分自身を訓練しております」と言いました(使徒24:16)。しかし、これは信仰を持たずに良心的という意味ではありません。



   Q、13
    
人には良心がありますが、良心とは何ですか?

   A 良心は心の深みにある霊の一部分です。間違ったことがあると、審判のように「アウト!」と言います。人の前で自分は良心に恥じないことをしていると言っても、良心は「あなたは罪を犯した!」と言います。良心の声を黙らせようとしても夜も昼も訴えます。ダビデが大きな罪を犯して罪を隠していたとき、彼の心は「罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしを上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって枯れるように、枯れ果てた」と言っています。
 良心の無いように見える人にも良心はあります。アンドリュー・マーレーは「良心は廃墟の城に最後まで守り続ける神の番兵である」と言っています。パウロが「義と、節制と、来るべき裁きとについて論じていると、ペリスクは恐ろしくなって」(使徒24:25)とありますが、これはペリスクの良心が呼び覚まされ、不安になったということです。



   Q、14
    
良心的であればよいと言っても、だれでも神の前に罪人ですから、まず赦されて清い良心とされ、平安を持つべきですね。

   A そうです。まず自分の良心に問題があることを知らされるべきです。良心も神の言葉の光のもとで調整されるのです。良心的だと思っていても神の言葉の標準は高く、神の言葉によって良心的でもないことを知るのです。しかし、キリストの十字架の血はわたしたちの良心をきよめ(ヘブル9:14)、神の前で平安を与えます。
 それから「良心」はわたしたちに警告や命令を出しますが、悪い生活習慣をやめさせる「力」を与えるわけではありません。だから「良心にしたがって生きておれば・・・」というのはむなしい議論にすぎません。
 「良心」の働きは、ちょうど律法のように、わたしたちに自分が良心に従えない者であることを自覚させ、真の救い主である「キリスト」へと導くところに「良心」の役目があるのです。ですから「良心」は、人にキリストを指し示すのが使命であって、決して「良心」はわたしたちの救い主ではないのです。間違ってはいけません。



   Q、15
    
やはり信仰は大切ですね。

   A そうですとも。「純粋な良心をもって、その信仰の奥義を保っていなければなりません」(Iテモテ3:9)。大切な言葉です。信仰は純粋な良心の中で保たれるのです。こうなると、キリストにしっかり結合されているので、わたしたちの歩みは確かなものとなります。キリスト信仰は清い良心の中で育つのです。そして霊の中に力が加えられます。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストに従っていくクリスチャン生活は最高です。
 信仰を持たなくても、良心的であれば良いと言うのは間違いです。まず、キリストの救いを受け、つねに良心的でない問題を解決していただくべきです。キリストを信じると、キリストはわたしたちの内側に住んでくださいます。それは正しいか間違っているかという人の努力でなく、キリストがわたしたちの命となり、わたしたちに代わって生きてくださる生活となります。



   Q、16
    キリスト教は良いと思って、教会の集会に行きだしました。ところが、親は「信仰は良いけど、あまり凝らないように」と言います。どのようにしたらよいでしょうか?



   
A 多分。ご両親には宗教について変なイメージがあるのだと思います。新興宗教やインチキ宗教に熱心になったために異常な行動をして人間らしくなくなったり、財産を全部取られてしまったという実話があるので、程々にしたおくようにと言われるのでしょう。
 確かに、その意味はわかります。しかし、真のキリスト信仰はそのようなものではありません。本当にすばらしいのです。それは長い2000年の歴史の中で証明されてきました。
クリスチャンはみな祝福の人生に変えられた人たちです。それにクリスチャン・ホームはすばらしいです。
 ですから、まずあなたが喜びの人になる必要があります。これが一番の証しです。キリストと教会こそ、わたしたちをそのような人にします。初めのうちは誤解されるかもしれませんが、それは仕方ないでしょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。そのうち、あなたの信仰が本物であれば、必ずご両親も、家族全員が主イエスを信じるようになられるでしょう。これは聖書の約束です。




   
Q、17
    
わたしの家は仏教です。家には仏壇もあります。両親は、「うちは先祖代々仏教だがキリスト教は悪くない。ただあまり凝らないように」と言うのです。



   
A 仏教ですね。でもあなたが教会の集会に行くことに反対されないのですから、とても理解がある良いご両親です。感謝ですね。しかし、大切なことは、まずあなたが早く救いを得られることです。あなたはキリスト教という宗教によって救われるのではありません。生きておられる救い主、キリストご自身を信じて救われるのです。「この方のほかに、救いはありません。わたしたちが救われるべき名は、この名のほか、天下のだれにも与えられていないからです」(使徒4:12)
「ただあまり凝らないように」という言葉を意識しすぎて、中途半端なクリスチャンにならないでください。



   Q、18
    
中途半端なクリスチャン?



   
A そうです。隠れキリシタンのようになってはいけません。こっそりクリスチャンになるのではありません。最初から自分がクリスチャンであることを証しすべきだと思います。またサンデークリスチャン、日曜日だけクリスチャンと言うのもいけません。集会の時だけで、あとはイエス・キリストと無関係のような生活ではいけません(わたしたちは日曜日でなく、聖書にしたがって主日と呼んでいます―啓示録1:10)。とにかく教会の集会を重んじて、集会の中で兄弟姉妹と共に主を十分に享受することです。そして集会だけでなく、毎日、主を享受するように心がけてください。しかし、いわゆる宗教的で、単なる形式的な人になるのではなく、内側が主イエスによって生かされ、満たされ、充実しているクリスチャンになることを目指してください。そのようなクリスチャンは最高に魅力があります。
 「わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
 もはやわたしではなく、キリストがわたしの中に生きておられるというようなクリスチャン、キリストを生きる生活を追い求めましょう。主があなたとご一家を祝福してくださるようにお祈りいたします。








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