大阪に在る教会-教会の歴史2-





主の回復

 わたしたちのうちの何人かは、主の回復はマルチン・ルター(Martin Luther)で始まった、と思っています。しかし主の回復は、彼の勝利者たちをもって、第二世紀に始まったことを、わたしたちは知る必要があります。神聖な啓示が完成された後、ほんのしばらくのうちに、教会は堕落に陥りました。ですから、回復の必要がありました。主の回復は、教会の堕落が入ってきた直後に始まりました。主の回復の路線は第二世紀に始まり、何世紀にもわたって継続してきたのです。
 何世紀にもわたって、主を愛する人たちは、この世的なキリスト教とは共に行こうとしませんでした。彼らはできる限り、主の言葉を守ることを願いました。彼らは純粋な良心をもって生活し、自分たちが聖書から見たことにしたがって神を礼拝することを願いました。しかしわたしは何度も強調しなければなりませんが、彼らは神の団体の目標について、明確ではありませんでした。こういうわけで、主の再臨が、今日に至るまでも遅れているのです。この地上にどれほど多くのクリスチャンの群れがあるとしても、正当な教会生活がない限り、主はまだ彼の到着点に達していないのです。
 わたしたちは「教会の人々」である、という認識を持つ必要があります。日ごとに、わたしたちは「教会している」のです。教会することがわたしたちの働きです。わたしたちは教会です。わたしたちは宗派でも、宗派の間のものでも、無宗派でもありません。わたしたちは教会の民です。わたしたちは主の目標の回復にいます。この回復は、信仰による義認、救い、聖化の回復ではありません。わたしたちは教会の回復の中にあります。そしてそれは、前のすべての項目の回復を含みます。



国家教会の形成


 主の回復は、マルチン・ルターが、信仰による義認について真理に立ったことで、はっきりした形を取りました。ルターは、救いの、信仰による義認の、偉大な防衛者でした。ところが彼もまた、幾つかの大きな間違いをしました。一方で彼は真理を防衛しました。もう一方で彼はドイツ政府と提携する、という間違いをしました。政府とのこの提携は、いわゆる国家教会、あるいは国立教会の源でした。わたしがルターを批判していると思わないでください。わたしたちはみな人であることを、わたしは知っています。一方において、わたしたちは大いに、神に用いられることができます。もう一方で、わたしたちは他の領域で弱いことがあり得るのです。ルターは信仰による義認のためには、命をかけるほどに強くありました。信仰による義認のための彼の立場で、彼はその当時、地上での最大の権力である法王に対抗して立ち上がりました。ところが、教会の問題に来ると、彼は弱腰でした。これは歴史の記録によることです。最初の国家教会は、ドイツの国家教会でした。次に、他の多くのヨーロッパ諸国が、ドイツに倣いました。例えば、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンなどです。ついには英国国家教会、アングリカン教会が形成されました。英国教会は、英国政府と混合しています。今日でも、英国の女王が英国教会の頭首です。デンマークの国王は、デンマークのルーテル派国家教会の元首であり、スウェーデンの国王は、今日のスウェーデン教会の元首です。これはルターの間違いから来ました。ルター自身でさえ、この点で自分が弱かったことを認めました。真理の防衛者たちはみな、幾らかの間違いをしました。これには、ほとんど一つの例外もありません。これらの間違いはすべて、一つの大きな欠陥−神の目標のビジョン(幻)、正しい啓示に欠けていたことに基づいています。主のあわれみによって、教会のビジョン、神の団体的目標についての啓示は、今日とても明確です。わたしたちはみな、神の唯一の目標−教会について、明確である必要があります。



わたしたちの安全保障と均衡は教会のビジョンである


 わたしの感じるところによれば、ウオッチマン・ニー(Watchman Nee)兄弟は、教会のかしらがキリストのからだに、特に、今世紀に与えてくださった最大の賜物でした。わたしはあなたがたに、わたしの純粋な良心から彼のために証しすることができますが、彼はまた、教会に関する真理の偉大な防衛者でもありました。わたしの認識によれば、ニー兄弟は、神の団体的目標−教会について非常に明確でしたから、間違いを犯しませんでした。わたしたちは教会のビジョンを持っており、神の団体的目標についてはっきりしている限り、安全に守られます。教会、からだ、新しい人、神の永遠の目的の団体的目標は、わたしたちの安全保障です。聖書をどれほど多く知っていようと、もし教会を知らないのでしたら、わたしたちは結局、重大な間違いを犯すでしょう。もし教会についてはっきりしているのでしたら、わたしたちは安全に守られます。教会を知ることほど、からだを見ることほど、わたしたちを十分に護衛するものはありません。主の回復は、究極的に教会生活のためです。主の回復に先立つすべての項目、例えば、義認、聖化、内なる命、預言の正しい理解などは、教会生活の現在の回復のためです。今日わたしたちは教会生活のためにここにいるのです。もしわたしたちが、教会のビジョンと、神はただ教会を顧みておられることを真に見るのでしたら、決してどんな教理によっても、分裂させられはしないでしょう。
 信仰による義認を強調したマルチン・ルターの改革の後、国家教会は結局、むなしい死んだ状態になりました。改革された教会の死の状態の反動が、カトリック教会の中に依然としてあった奥義派の間にありました。主はガイオン夫人(Madam Guyon)、ブラザー・ローレンス(Brother Lawrence)、フェネロン神父(Father Fenelon)を含む一群れの人たちを起こされました。彼らは外側の実行や教えを考慮せず、内なる命の実際だけを顧みました。奥義派として知られたこれらの聖徒たちは、内なる命の生ける実際を回復し始めました。内なる命としての彼らのキリストの経験は、改革派諸教会のむなしさの反動として始まりました。しかしながら、内なる命の回復のために主が用いられた奥義派は、からだ、教会を見ていなかったために、やはり幾つかの間違いをしました。彼らはからだの安全保障とからだの均衡を持たなかったのです。
 わたしたちはクリスチャンの歩み全体の安全保障とクリスチャン生活の均は教会であることを深く印象付けられる必要があります。もし教会を見たのでしたら、わたしたちは決して、何ものによっても分裂させられはしないでしょう。もし教会のビジョンについてはっきりしているのでしたら、わたしたちは決して、聖職者階級制度を持ちはしないでしょう。なぜなら、長老の上に監督を置く者は、教会が生けるからだ、有機体であるのを、彼が見ていないことを示すからです。教会は、人の組織で統制されることはできません。聖職者階級制度は人の組織です。

 教会はキリストの有機的からだですから、組織とは何のかかわりも持つことができません。もしわたしたちの体に何かの悪いところがあるなら、それは有機的にいやされます。体は一つの有機体です。それは組織的な方法で触れられたり、取り扱われたりすることはできません。教会は有機体です。教会はキリストのからだであるだけではなく、新しい人でもあります。わたしたちの肉体の中の命が病気を顧みるように、キリストのからだの内なる命は、どんな問題をも顧みることができます。もし地方教会の中に何かの問題があるとしたら、わたしたちはこれらの問題から手を離して、それを天的医師、キリストにゆだねるのが最も良いのです。彼はからだの中の命です。わたしたちは、からだの中の命を、からだの内側で働かせる必要があります。この命から離れてわたしたち自身の行なうことは組織であって、これはからだを助けることなく、かえってからだを駄目にします。わたしたちは教会の中に問題を見る時、自分の存在と自分の行ないを抑制することを、学ぶ必要があります。
 わたしたちはみな、教会とは何であるかを見る必要があります。もし教会を神の団体的目標と見るのでしたら、わたしたちの行なうことは何であれ、からだにとって益になるでしょう。過去における真理の防衛者たちは、教会の正しい認識に欠けていたために、間違いをして教会を駄目にしました。




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