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福音ショートメッセージ

神とあなた、そして愛

「神」
 全世界の至る所で、人は神を礼拝しています。文明国でも未開の国でも、人類、風俗、習慣、などに違いあっても、神を礼拝することは人の本能です。ただ、人は漠然と心に神を感じているにすぎません。しかし、聖書では、少なくとも三つの事から神の存在について、また神は何であるかについて、わたしたちに示しています。第一に、「神の見えない永遠の力と神性の特徴は、世界が創造されて以来、明らかに見られており、造られた物において認められているので、彼らには弁解の余地がありません」(ローマ1:20)。わたしたちの住む家は建築した人がいることを示します。同じように、天も地も、創造された神がおられることを教えています。野に咲く一輪の草花でさえ、創造者なる神の存在を物語っています。わたしたちが目にするどんな物でも、創造者の存在を示しています、被造物を見て、創造者なる神の存在を信じないことが不思義です。太陽や月の運行、四季の変化など、みな神の存在を証明しています。神がこれらを管理しておられるので、昼も夜も、冬も夏も絶えず規則正しく循環しているのです。宇宙の法則が正確であり、万物の秩序が整然としているのは、神がおられて、すべてを管理しておられるからです。天文学者にクリスチャンが多いのもそのためです。第二は、イエス・キリストは神の存在を表しています。イエスは自分が神の子であると言われただけなく、「わたしを見た者は神を見たのである」と言われました。釈迦も老子も孔も、だれも自分は神だと言いませんでした。キリストの存在、彼の言葉、彼の行動のすべては、だれも真似ることのできないものです。調べれば調べるほど、イエス・キリストは神であることがわかります。神を知らない人や信じない人でも、イエス・キリストは聖人であると言います。しかし、これは不十分な言い方です。イエスは神の子なのです。第三は聖書です。聖書は、王、預言者、学者、取税人、漁師、医者など、少なくても三十六人以上の人によって、約千六百年かけて書かれました。時代も国も地方も風俗も、習慣も教育も環境もまるで違う人たちが、千六百年もかかって書いたのです。聖書は、現在、二千二百以上の言語に翻訳され、毎年約三億冊以上も出版されています。ベストセラーと言われる本でも三百万冊には達しません。古典の名著でも毎年数百万冊も出版されるわけではありません。これを見てても。聖書がいかに優れた本であるかを知ることができます。また聖書の預言や歴史や人類に与えた影響力は測り知れません。聖書は神の言葉です。

「罪」
 聖書は、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3:10)と言います。この世に罪のない人はいません。法律を犯す人は犯罪人です。たとえ多くの善行を積み、人のため会社のため国のために尽くしたとしても、人を殺せば人殺しです。多くの法律を立派に守っても、一つでも破れば犯罪人です。同じように、神の法律を犯す者は罪人です。どうか次の質問に答えてください。あなたはこれまでに

(一)人を憎んだことはありませんか?
(二)情欲をいだいて女の人を見たことはありませんか?
(三)盗んだことはありませんか?
(四)うそをついたことはありませんか?
(五)人をねたんだことはありませんか?

神の法律は国の法律と違います。国の法律では、実際に人を殺さなければ人殺しの罪にはなりません。ところが、神の法律では、「すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです」(1ヨハネ3:15)。実際人を殺さなくても、人を憎む者は人殺しです。人を憎んだり、うらんだり、ねたんだり、怒ったりしない者が、一人でもいるでしょうか? 憎む心があれば、神の御前で殺人罪を犯したことになるのです。憎む心、欲しがる心、情欲に燃える心は、罪の卵です。そこから人殺しや泥棒や姦淫が出てきます。憎しみがなければ殺人はありません。心の中に罪の思いが起こるなら、もう人は罪を犯したのも同然です。まだ行ないになっていなくても。罪の思いは罪の卵です。人の心には、偽り、欺き、そしり、ねたみ、うらみ、怒り、誇り、高ぶり、親不孝、不親切など、罪があふれています。暗い部屋に太陽の光が差し込んで空気のごみに驚くことがあります。神の光に照らされて、はじめて罪を知ります。自分は罪人であると知らさせるのです。罪の支払う報酬は死です。人はみな罪に縛られ、罪の奴隷となつて、罪のうちに死にます。そして死んだ後、神の裁きがあります。だれも逃れることができません。「何とわたしは苦悩している者でしょう! だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?(ローマ7:24)。

「救い」
 聖書では、罪をらい病にたとえています。らい病は、皮膚よりも深い肉や骨を冒します。最後には、手足の指から手首や足首までが腐り、髪が抜け歯も抜け、鼻も目も舌もなくなってしまいます。このように罪は恐ろしいのです。主イエスは言われました、「もし、あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切り取って捨てなさい。両手両足を持ったまま永遠の火の中に投げ込まれるよりは、片手片足で命に入るほうがよい」(マタイ18:8-9)。わたしたちは「神」がおられることを知りました。また自分には「罪」があることも知りました。神は聖であり義であるので、人の罪は必ず罰せられます。今、最も必要なことは、主イエス・キリストによって救われ、罪のために受くべき地獄の刑罰から救われることです。水に溺れている人は大声で助けを求めます。わたしたちは、今、罪という海で溺れています。自分で自分を救うことはできません。だれも人を救える人はありません。すべての人は罪を犯したからです。自分の罪さえ解決できない人が、どうして他の人を救えるでしょうか? わたしたちは神に向かって叫ぶ以外に方法はありません。神は、救いを求めて叫ぶわたしたちの声を聞かれました。神は聖と義であり、また「神は愛です」。神の心は愛です。神はイエス・キリストの十字架と復活によって人類のため救いの道を開かれたのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された。それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで。永遠の命を持つためである」(ヨハネ3:16)。神はひとり子、イエス・キリストをわたしたちに賜わりました。彼を信じさえすれば救われるのです。信じるとはキリストを心の中に受け入れることです。わたしたちは「神」の前に「罪人」ですが、ここに「救い」の道があります。神の救いの御手はあなたに差し出されています。どうか今、あなたの心の中に受け入れてください。神はキリストを信じる者が滅びることなく、信じる者に永遠の命を与えてくださいます。さあ。今、神に祈りましよう、「神よ、感謝します。あなたはわたしを愛し、ひとり子であるキリストを賜わりました。今、わたしは御子を信じ受け入れます。わたしを救ってください。もう滅びることなく、永遠の命を得させてくださったことを感謝します」。





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